発達障害グレーゾーンと愛する犬

発達障害のグレーゾーンと鬱病診断され、人生に悩み就職をやり直すことに

「チャレンジ」をやめる

「諦めないことが大事です」

「チャレンジし続けましょう」

「ずっと悪いことが続くわけがない」

 

テレビを観ていると、こういう空虚な励ましの言葉が溢れている。

なるほど、確かに彼らは一度はどん底を見たのかもしれない。そこから努力や運を味方につけて、這い上がってきたのかもしれない。

だからこそ、自分と同じような苦しみを味わっている人を励ましたくて、こうした発言をしているのだろう。

 

 

しかし、本当に絶望と鬱の中にいる人々に、こうした言葉は響くのだろうか。

「○○さんの言葉に励まされました!」「元気が出ました!!」

そう思えるのは素晴らしいことだ。人の言葉から元気をもらい、前を向ける。これほど理想的な光景はない。

 

けれど、私には響かなかった。

もし、将来私が鬱を抜け出し、未来に希望を持てるようになったのならば、「ああ、確かにあの言葉は正しかった」と思うだろう。だが、それはあくまで仮定の話だ。

努力してもどうにもならないこと。努力したくてもできないこと。そういった生きづらさに苛まれ、誰にも認められることなく生を終える人々もたくさんいるはずなのだ。ただ、「誰にも知られない」から、認識されないだけで。

「報われなかった人々」の話はネタにはならない。だから世間にも広がらない。誰もそんな現実は直視したくないし、自分の未来だとは思いたくないからだ。しかし、そうした人々の声が届かないせいで、世の中にはサクセスストーリーが溢れている。

「頑張っていればいつかは…」

そういう宗教が蔓延している。

 

だから、今現在鬱に苦しんでいる人々は、もっと楽になりたくて、いつかは救われると信じて、ひたすらにチャレンジを続ける。「もっと頑張れば!」そう盲信して、無理矢理自分を社会の型に当てはめようと、凸凹した部分を削り取っていく。

絶対に開けられない鉄の扉に、生身を打ち付けているようだとさえ思う。

 

そしていつかは…いつかは、何が残るのだろう。

そこにあるのは砕けた身体の残骸だ。心の残骸だ。

「あと少し!」「諦めないで!」そうした言葉を信じて特攻したが故に、限界を超えて壊れたガラクタだ。

 

 

本当に求められているのは「今より良くなる」というサクセスストーリーなのだろうか。もちろん、まだ未来を信じられる心の余裕があるうちは、サクセスストーリーを夢見て努力していけばいい。

けれど、一度心が悲鳴を上げたときは、頑張ることをやめるべきだ。理想を諦めるべきだ。

「死にたい」「逃げ出したい」そう思うことは間違いではない。悪ではない。そう思う心を認めて、一度立ち止まるべきだ。

自分の心を静かに分析し、「自分の限界」を認め、「正直な自分」が生きやすい環境作りに没頭すればいい。それに関して社会になんと言われようと、耳を貸してはいけない。

考えることすら苦しいときは、考えることを放棄して、ひたすら横になり続ける。それもまた「生きる環境」を作る行動の一つなのだと思う。

「もっと」は所詮夢物語だ。もっとできるのならやっているはずだ。やれていないということは、できる状態ではなかったということだ。

後になって振り返れば、もっと頑張れたはずと後悔することは、いくらでも思いつく。そういうときも、「あの時の自分には必要だった」その言葉で過去の自分を受け入れよう。

 

とりあえず今日も生きている。それだけで十分に、「生」に挑戦していると私は思う。