発達障害グレーゾーンと愛する犬

発達障害のグレーゾーンと鬱病診断され、人生に悩み就職をやり直すことに

人それぞれ

鬱との闘病記や、発達障害との付き合い方など、ノウハウ本が次々と出版されている。

なるほどな、と思うものもあれば、私には向かないな、と思うものもある。

それでいいんだと思う。

 

今の環境にいることが苦しくなったら、全部捨ててしまっていい。命より大事なものはない。

 

そういう投稿もツイッターでよく見かける。その通りだと思う。

けれど一方で、「私はきっと投げ出すことはできないだろうな」とも頭の隅で考えるのだ。

実際、今まで苦しくなったことから逃げたことはある。モラハラの激しい上司のいたバイト先は、相手に止められる前に辞めた。

実際、当時の私の選択が間違っていたとは思わない。

けれど、そのあと「私は逃げ出したんだ」という罪悪感…のような、自己否定の気持ちが事あるごとに湧き上がってくるのだ。

こういう負の思考回路が決して良いものではないことは理解している。けれど、頭で理解してても、私の性格上、「考えることをやめる」ことがどうしてもできないのだ。一人でいる瞬間。夜寝る前の時間。何も考えたくないのに、自分の「できなかったこと」ばかりが脳裏をよぎりだす。

だから、きっと私のような人間は逃げれば逃げるだけ、どんどん自分を責めて、追い詰めて、最期には自分を失ってしまうのだと思う。相変わらず、「何故生き続けなければならないのか」の答えもでないままだ。

ただ、この性格を持って生まれたことで、良かったと思う瞬間もある。なんだかんだ、しぶとい性格であるということだ。ギリギリまで何とかしようと考え続ける。少しでも自分にとって良い環境を生み出せるようにもがき続けられる。一度手放したら、なかなか取り戻すのが難しいものーー例えば、社会的な地位や家族ーーを、手放してしまう前に踏みとどまれる。

私のような人間は、「振り切れる」ことができない代わりに、一生苦しみながら、それでも「まあまあ」の均衡点の上を、均衡が崩れてしまうその時まで生きていくのだろう。

 

周囲の友人たちとの関係を一掃したいと思うことも良くあるが、彼らと話すことで学ぶこともあると思う私もいる。自分とは全く違う思考で生きている人と、「一緒にいると辛いから」といって関わりを絶ってしまうと、私自身の思考がどんどん傾き、閉鎖的な人間になってしまうのではないかという危機感もある。

 

どんな苦しい状況も、捉え方次第で学べることがあると考えてしまうことこそが、私を追い込み苦しめ、それでも成長させているのだと感じるから、今はまだ、ここから全てを捨てて逃げ出すことができないのだ。

 

少なくとも、私はこの一年公務員試験を受け、発達障害に苦しむ人々とも関わり、私自身の発達障害や鬱と向き合ったことで、私のようなタイプは、一つの組織の中で人間関係に悩みながら働き続けるよりも、資格を取得して、場所を問わずに力を発揮できる環境を作っていく方が向いているのだと理解できた。

多くの人が「とりあえず取っておくか」と思い取得しておく資格一つとっても、「自分になんのメリットがあるのか」心底理解できないと頑張れないのが私だ。一つ一つのことを学ぶのに、理屈を求めてしまうのが私だ。そんな私を、私はずっと認められなかった。

けれど、最近ようやく、本当の私を受け入れられるようになった。失敗しなければ学べない。それが私なのだ。

認めるのは苦しいけれど、この特徴と向き合わなければ、私は前には進めない。

そう思えるようになったのは、きっと、自分と向き合い続けてきたからだと信じたい。

私はずっと霧の中にいる気がするが、それでもぼんやりと見える光のようなものを追い続けて、とりあえずは生きていこうと思う。

 

とはいえ、これはやっぱり「私」の話。これが全ての人に正しい答えだとは思わないし、私も必要だと思ったら、逃げ出すという選択肢をきちんと持つことを忘れるべきではない。より多くの人が、いろんな人の声を聞き、それぞれに合った、自分が取るべき最善の行動を選べる。そんな社会に少しでも貢献できればいいと思って、この投稿をしました。

希死念慮と死への恐怖

今日は短め。

 

私の中には昔からずっと、希死念慮と死への恐怖という、一見すると相反する感情が常に共存していた。

そんな自分をずっと「どっちもあるなんておかしい。私はそういう感情を言い訳にして現実から目を背けているだけだ」と責めてきた。

 

漠然とした『消えてしまいたい』という思いがある。それはきっと、生きていることに将来的な希望を見出せないからだ。時折楽しいこともある。でも、辛いことの方が多い。今の自分の現状で、今後良くなっていくようにも思えない。だから、将来的にあるかもわからない幸せを期待して苦しい思いをし続けるくらいなら、全て捨てて楽になりたいという思い。

一方の死への恐怖は、生物の本能のようなものだけど。まあ、『未来の可能性』について想像する力を持つ人間だからこその恐怖なのかもしれない。自分の存在がこの世界から消失するとは何なのか。全く未知のブラックホールへ投げ出されるような恐怖。普段の思考レベルでの『命あるものは死ぬ』という考えより一段階深い次元で、『消えるとは何か』を考えてしまう。暗い部屋で静かに死について考えていると、発狂しそうになることが定期的に起きる。他の人が無意識に考えないように蓋をしている命の根本という所に、なぜか無防備に立ち会ってしまうような感覚。

けれど、最近この死への恐怖は、老いへの恐怖なのかもしれない。と思うようになった。死ぬことそのものより、死ぬ瞬間。自分の人生を振り返った時、楽しかったことよりも苦しかったことの方が多く浮かんできたらどうしよう。誰も看取ってくれない部屋で静かに死ぬのは嫌だな。アルツハイマーになってて、周りに迷惑かけて、愛していたはずの家族からも疎ましがられる存在になって死んでいき、死んだ時に「せいせいした」と言われるんじゃないか。(これは私の祖父がなくなるまでの出来事が影響してると思われる)

とにかく色んな、どうしようもない未来のことについて不安になるのは、今私が就活をしたり、資格の勉強したり、大学もう一回入るかもって検討したりと、今後の人生の歩み方について決定する大きな岐路に立っているからだと思う。

時には死が救いになるともある。私はそれを否定できない。だからこそ、自分が迎える死に方が気になるのだ。

 

それでも、最近少しずつ、違う気持ちも生まれつつある。中学生の時、いとこが飼っていたラブラドールが、私の目の前で死んだ。少しずつ痩せていって、私毎日通って、伯父さんと伯母さんは用事があるからって側についていてあげなくて、私がたった一人で診ている時に、突然ブルブルと全身が揺れて、四肢が一度ピンと張り、その後グタっと力が抜けた。自分の目の前で命が失われていく瞬間を生々しく見ていたのは初めてだった。

感じたことは二つ

一つは死ぬということ

二つは死ぬ時のこと

死ぬということについては、もうそういうものだから、としか言えないから諦める。

けれど死ぬ時、私だったら家族とか親しい人に最後まで見ていてほしい。手を繋いでいてほしい。いとこの家は犬は好きだが、我が家のように家族の一人としてみているわけではない。どちらかいうと番犬のような。だからあまり犬をベタ可愛がることが多くなかった。とはいえ、十何年も家族をやってきたのだから、その犬とて瞼を閉じる瞬間に飼主の顔を見たかったはず。それをいつも通りの予定があるから放置という、神経が理解できなかったし。犬の気持ちになったら、ひたすら悔しかった。最後は私が見た。小さい頃からずっと遊んできた妹のような存在として愛していたから、とんでもなく泣いた。でもやっぱり犬ならば最期は飼主との横で生を終えたかったはずだ。

そして、この件があってから、死ぬ瞬間というものに興味を持つものになった。

自分を支えてくれた人たち、愛してる人たちに見守られて死にたい。孤独死は嫌だなあ。などと。けれど、自分を看取ってくれる人が今後でてくるのか。それを考えたら今度は『今のうちに死んでしまいたい』という思考になる。

 

祖父は深夜に祖母からの電話で他界を知った。朝向かった時はきれいに整えられていて、あまり死という印象はしなかったけど、触れた肌が冷たかったこと。遺体を焼いて、小さくかけて焼けた骨を一つ一つ納骨しまこと。あとは、ずっと赤ん坊のようになっていた祖父がようやく穏やかになってよかった、と一族が安心感に包まれていたこと。それが印象に残っている。悪い親戚ではないが、介護が大変だったことはその通りとはいえ、その苦行から解き放たれたことを喜んでいるかように振舞っていてなんとなく物悲しくなり、私はこういう最期を迎えたくないと思った。

 

こんな風に二つの感情に振り回されていきてきた私だが、最近この二つは結びついていることが理解できるようになった。

 

まず

1いろいろあって生きてて楽しくない

周りにも迷惑かけたくないから楽になりたい・消えてしまいたい

いつはいいことあるとかそんな不確定なことを信じられるメンタルじゃない

2死んでしまいたいなあ

でも自殺は周りに迷惑かけるから、生きる屍みたいに生きていくしかないのかな

3でも、そんな生きてんだか死んだんだかわからない状態で生きてるってことは、今後の私はこのまま?じゃあ何十年後かの私は?

4何も成し遂げられず、誰にも必要とされることもなく、生き物として淡々と命を終わらせて死んでいく。そんな自分の未来が想像できる

5そんな死に方したくない

6そしたら今から友人関係家族構築色々準備せねば…

7頑張るはいいけど、なんか軒並みうまくいかない…

8 1に戻る。消えたい

 

 

雑だけどまあこんな感じだな。結果怖かったのは希死念慮と死に方への恐怖なんだよね

でも、犬・祖父・それからTBSのクレージージャーニーで大量の死後新しい死体を見まくったこと、小学生の頃から沖縄戦の写真集などで野山に転がる日本兵の写真も散々見まくったことから、少しずつ『死』への漠然とした恐怖が薄らいでいってる気がする。

私もああいう死体の一つになるだけのことだって考えることを少しずつ淡々とできるようになってきている。

そして、いつかああなるのなら、とりあえず今はまあいいかな、ってことで死を遠ざけるコツもうまくいくようになった。

苦手なものには、あえてあえて触れ続け、考え続けると、苦手じゃなくなることもあるんだなって実感した。

 

だから今は死への恐怖の方が抑え気味

希死念慮はもう…しばらくはどうにもならんから

でもまあ、どちらの感情も共存して良いものなのだと理解できてよかった。

 

結局長くなった

眠剤飲んでたから文章所々おかしいかも

人生いろいろ

私の周りには色々な人がいる。

大学院に進んで文学をひたすら学んだり、大学在籍中に突然イラストレーターになりたくなって学校に通い始めたり、SMバーで働いていたり、大学に二回入ったり。

いろんな人がいて、それぞれ自分で考えて決断して、前に進んでいる。

私にはそんな人々がとても輝いてみえる。

 

私は昔から、何かを続けるのが苦手だった。

誰かのためにやることだと、結構続く。アルバイトも部活動も、役職について、人に必要とされて、それに応えるためならば頑張れる人間だと思う。

けれど、「自分自身」のために、自分の成長のために努力することがとんでもなく苦手だ。そんな自分が嫌いだ。

今のままの自分を許している。「このままでいい」とどこかで甘えている自分に反吐が出そうだ。

それでも、私は自分のために頑張れない。

 

就職活動もそうだ。

周りを見ていると、企業の面接のために、自分を上手にアピールできるように、企業のあらゆる情報を調べ、プレゼン練習をし、模擬面接を繰り返している。

本当にすごいと思う。

私もやろうとしたのだ。けれど、会社のIR情報を読み込んだところで何がわかるのだろう。その会社で働いたこともなく、上っ面の話しか聞けない説明会に参加した程度で、本当に会社の気風や求めているものがわかるのだろうか。

もちろん、インターンシップで長期間働き、心底その会社で働きたいという熱意がある人はいい。

けれど、多くの人は、それまでの自分の人生とほとんど係わりのない会社を受け、そして内定をもらっている。

どうして皆、そんなに上手いことできるのだろう。

まあ、言い訳ばかりしているわけにはいかないから、私もそれなりに頑張った。企業の雰囲気を調べ、力を入れていることを調べ、それらしい志望動機を面接でも言った。ただ、きっとどこかが駄目なのだ。私が興味を持った会社からはことごとくお祈りをされた。

 

わがままを言っているのかもしれない。会社を選ばなければ、雇ってくれるところはたくさんある。それだけの学歴や経歴だけは持っている。

けれど、私は想像以上に人間関係を上手く保つことに苦労しているから、「合わない」会社に入ったところで、すぐに辞めたり、迷惑をかけたりしてしまう不安がつきまとう。

だからせめて、「続けたい」と思える仕事をしたかった。

他人はいう。「入ってみたら意外と向いてることもある」と。

けれど、これまでの経験で、私自身が最初に嫌な予感がした場所は、大抵どんなに上手くやろうとしても、どこかで歪みが生じた。だから、怖いのだ。

 

こんなことをずっと悶々と家で悩み続け、自分が続けられる仕事について考え続けた。

結果的にやはり、会社員は向いていないだろうと判断した。

グレーゾーンとして、ギリギリなんとかコミュニケーションを円滑に進めることができてしまう。だから周りにはあまり理解してもらえない。けれど、私の中ではとんでもなく負担がかかっている。ということは、コミュニケーションが命のような会社で働いてはいけない。

ならば、資格をとって生きていけることか、塾講師か、そういった生き方を考える必要がある。

 

発達障害というものと、向き合わざるを得ないようになってから、当事者や家族の苦しみを痛感した。彼らが少しでも社会で生きやすくなるようにサポートしたい。そういう思いも強くなった。

だから、将来的には精神保健福祉士の資格を取ろうと思う。だが、今すぐもう一度大学に通うには、親の援助を受けなければならない。

それは、きっと私の心が許せない。

 

なので、まずはとりあえず非常勤でもなんでも、仕事をしようと思う。貯金をして、もう一度大学へ行く。今度はきちんと、将来のことを考えて。

その間にできれば保育士資格やTOEICもとりたい。

 

子どもも欲しいし、35歳以降は障害を持って生まれてくる確率が上がってしまうと聞くから、それまでには結婚して子どもを産みたいという思いはある。

ただ、今それまで考えて人生を選ぶ余裕はない。

子どものことは一旦保留にして、会社員として働いている友人たちの目も忘れて、自分のために必要なことだけを考えて、一つずつ頑張っていこうと思う。

 

 

「チャレンジ」をやめる

「諦めないことが大事です」

「チャレンジし続けましょう」

「ずっと悪いことが続くわけがない」

 

テレビを観ていると、こういう空虚な励ましの言葉が溢れている。

なるほど、確かに彼らは一度はどん底を見たのかもしれない。そこから努力や運を味方につけて、這い上がってきたのかもしれない。

だからこそ、自分と同じような苦しみを味わっている人を励ましたくて、こうした発言をしているのだろう。

 

 

しかし、本当に絶望と鬱の中にいる人々に、こうした言葉は響くのだろうか。

「○○さんの言葉に励まされました!」「元気が出ました!!」

そう思えるのは素晴らしいことだ。人の言葉から元気をもらい、前を向ける。これほど理想的な光景はない。

 

けれど、私には響かなかった。

もし、将来私が鬱を抜け出し、未来に希望を持てるようになったのならば、「ああ、確かにあの言葉は正しかった」と思うだろう。だが、それはあくまで仮定の話だ。

努力してもどうにもならないこと。努力したくてもできないこと。そういった生きづらさに苛まれ、誰にも認められることなく生を終える人々もたくさんいるはずなのだ。ただ、「誰にも知られない」から、認識されないだけで。

「報われなかった人々」の話はネタにはならない。だから世間にも広がらない。誰もそんな現実は直視したくないし、自分の未来だとは思いたくないからだ。しかし、そうした人々の声が届かないせいで、世の中にはサクセスストーリーが溢れている。

「頑張っていればいつかは…」

そういう宗教が蔓延している。

 

だから、今現在鬱に苦しんでいる人々は、もっと楽になりたくて、いつかは救われると信じて、ひたすらにチャレンジを続ける。「もっと頑張れば!」そう盲信して、無理矢理自分を社会の型に当てはめようと、凸凹した部分を削り取っていく。

絶対に開けられない鉄の扉に、生身を打ち付けているようだとさえ思う。

 

そしていつかは…いつかは、何が残るのだろう。

そこにあるのは砕けた身体の残骸だ。心の残骸だ。

「あと少し!」「諦めないで!」そうした言葉を信じて特攻したが故に、限界を超えて壊れたガラクタだ。

 

 

本当に求められているのは「今より良くなる」というサクセスストーリーなのだろうか。もちろん、まだ未来を信じられる心の余裕があるうちは、サクセスストーリーを夢見て努力していけばいい。

けれど、一度心が悲鳴を上げたときは、頑張ることをやめるべきだ。理想を諦めるべきだ。

「死にたい」「逃げ出したい」そう思うことは間違いではない。悪ではない。そう思う心を認めて、一度立ち止まるべきだ。

自分の心を静かに分析し、「自分の限界」を認め、「正直な自分」が生きやすい環境作りに没頭すればいい。それに関して社会になんと言われようと、耳を貸してはいけない。

考えることすら苦しいときは、考えることを放棄して、ひたすら横になり続ける。それもまた「生きる環境」を作る行動の一つなのだと思う。

「もっと」は所詮夢物語だ。もっとできるのならやっているはずだ。やれていないということは、できる状態ではなかったということだ。

後になって振り返れば、もっと頑張れたはずと後悔することは、いくらでも思いつく。そういうときも、「あの時の自分には必要だった」その言葉で過去の自分を受け入れよう。

 

とりあえず今日も生きている。それだけで十分に、「生」に挑戦していると私は思う。

 

 

「好き」ってなんだ

 

好きであることとマニアであることが同列のように扱われている、そんな感覚を時々覚えます。

狭く深く好き、浅く広く好き、各々の「好き」が認められない苦しさを感じたことがある人、いらっしゃるんじゃないでしょうか?

 

私は少年漫画が好きです。でも、ワンピースは40巻くらいまで読んで、あまりハマらず、ゴールデンカムイは興味は持ちつつも、時間とお金が足りず読んでいません。スラムダンクは多分読んでもあまりストライクにはならないだろうな、と思って手を出していません。

私は少女漫画が好きです。でも、君に届け。とかアオハラは正直あまり共感できません。どっちかというと白泉社系が好きです。でも、赤髪の白雪姫にはそこまでハマりませんでした。

私は乙女ゲームが好きです。でもうたプリスタスカには興味が持てません。

私は明治維新の話が好きです。でも幕府の重要人やら維新の英雄を網羅しているわけではありません。

 

誰しもこのように、ハマるもの、ハマらないもの傾向があるはずです。

でも、下手に「好き」と言うと、オタク度チェックをしたがる輩が必ず現れ、「じゃあ、あの作品知ってる?」「あの曲知ってる?」という話になります。

「知らない」と正直に言えば、大抵「え、知らないんだ〜(ニワカじゃん)」という白けた目線を向けられることになってしまう。

 

例えば私が嵐を好きだとしましょう。

嵐っていいですよね。素敵な曲が多い。爽やかで胸に響くなあ。と思っていたとしましょう。

でも、嵐が好きというなら、コンサートだけで歌われる曲やら、個人曲やら、網羅してないといけませんか?

 

 

なんでこんな、今までにもいろんな人が既に言い尽くしてきた不満を口にしているか。

それは、やっぱり就活に関わるからです。

「趣味は?」「特技は?」「尊敬している人は?」「好きなものは?」

もちろん、企業はべつにその中身を見てるわけではないはずです。どちらかというと、その自分にとって大切なものについて、他人に説明できる力を見ているのだと分かっています。

でも、じゃあ私が「乙女ゲーム攻略サイトを見ずにベストな選択肢を選び、スチルを無駄なく回収できることが特技です」って言えますか?

言えませんよ。

あの難しさは、やったことがある人にしかわからない。マイナー故の苦しさ。

だから、「散歩することが好きです。」みたいな、どう見ても否定されなそうなことばかり答えることになる。

逆に「土方歳三を尊敬している」と言えますか。これもまた難しい。若い女性に人気がある人だから、当然「どこを尊敬しているの?」っていう話になる。「これと決めたことを貫くために、非情なまでに厳しくなれる。近藤を思い、彼を大成させるために、恐れられ憎まれる役を買っていたところが好きです。」って答えたい。

でもそんなことはできないのです。

第一の理由:面接官もオタクだった場合、ありきたりな答えだから。浅い人間だと思われる危険性。

第二の理由:単純に回答内容から「会社組織でやっていけなそう。周囲と軋轢を呼びそう」と認識される危険性。

 

はい、結果ね。

好きなもの関連は、本心で好きか嫌いかとか関係なく、「ほどほどに認知度があり、けれどありきたり過ぎず、悪印象を与える危険性がない」ものを言うしか無くなるわけですよ。

だから、最近尊敬している人物は美○明宏と答えるようにしています。

適度に意表を突き、しかし有名で、あの時代に「性」を超越して活動し、人生についての深い考察をたくさん発表している。人間としても過激性はそこまで高くない。(まあ、交友関係で多少過激な人はいますが)

もちろん美○明宏さんは素晴らしい人です。尊敬もできる人だから、嘘ではありません。でも、ネットで調べて、「あ、この人なら悪くなさそう」と判断して、私が意識的に尊敬する人物に設定したのです。

だから、面接で答えていても「ああ、本心じゃないなあ」という苦しさがずっとつきまとう。

 

もちろん、コミュ力がとても高い人は、もっと気楽に相手と盛り上がれるような話題を提示できるのでしょう。そこに一々苦労するからこそのグレーゾーンなのでしょう。

相手の反応がイマイチ予想できないから、無難そうな答えを選びたくなってしまう、この苦しい性よ…。

 

それでもね、プライベートと仕事はちゃんと分けられるんです。仕事で好きにならなきゃいけないものは、ちゃんと積極的に情熱を持って好きになれるし、個人で好きだとしても、社会的に受け入れにくそうなことは控えようという考えは持っているんです。

だから、好きとか嫌いとか、そういうプライベートなことをもう聞かないでほしい。

そもそも採用で企業側が一番意識してるのはコミュニケーション能力って結果がどうなんだ。営業職ならまあわかるけど、事務でパソコン打って、メールでやりとりしてっていう過程に、対面のコミュ力はそんなに必要ですか?むしろ求められるのはビジネスマナーでしょう…。

空気読む力は相手を不快にさせないレベルでは大切ですが、みんなといつも和気藹々と盛り上がるレベルまで必要とはどうしても思えない。でも、集団の中で仲良くできる力がないと、生きていけない会社が多い…。

無い物ねだりなのはわかっていても、やっぱり苦しいものは苦しいのです。

営業能力とかコミュニケーション能力を測りたいなら、面接前に事前に「○○」について調べておき、当日その素晴らしさをプレゼンしてください。とかいう風にお題を与えてほしい。

 

好きなものを正直に言えないのは苦しいことなのです。

そして、同じものを好いている集団の中で「どちらがより深い愛を持っているか」のマウントの取り合いもやめたいのです。

マイナーなものを好きだったとしても、自分がそれについて詳しくもないのに、偏見から「変わってる」と差別されたくないのです。

 

趣味や話が合いそうなら、仲良くなれそうな範囲で適度に付き合う。自分と好みが違っても、静かに距離を取り合って、互いに居心地良く過ごせるようにする。

そういうことを皆が意識的に気をつけないと、結局自分も社会もどんどん息苦しくなるだけなんじゃないかな、そんな風に思う今日この頃。

仕事量の管理

「エンさん、来月もうちょっとシフト増やせる?」

「あ、可能です」

「お、じゃあよろしく」

 

…これがおかしいことに何年かかったことか。

普通の人は、物理的に可能なスケジュールだとしても、メンタルとか休憩とか考慮してシフト組むものだって知らなかった。

「みんな忙しいんだ!じゃあ私も頑張らなきゃ」

本気でそう思ってた。

 

というわけで、裁量労働が可能ならば、きちんとメンタル状態も想像して労働量を決めないといけませんね。

これは労働に限らず、友人と会う頻度など、自分にとってストレスになりうるものすべてに言えますが…。

 

とはいえ、そのスケジューリングが苦手なのがADHDを始め、発達障害を抱える人の特徴です。

とりあえず、自分に最適な労働量を見つけるまでに最低でも1年はかかる覚悟で臨むべきだと思います。

 

まず用意すべきはカレンダー

パッと見てわかり、書き込みもしやすい紙のカレンダーが私はおススメです。

 

1.まずは、とりあえず現時点で可能だと判断した仕事量と内容をカレンダーに書き込みます。

2.出勤前に、メンタルの状態を5段階くらいで書いておきます。

3.退勤後に、またメンタルの状態を書き込みます。

4.これをひたすら繰り返します。

 

季節や天気、仕事の量と内容、様々な要因によってストレスは大きく変わります。また、当日はそんなに疲れを感じなくても、後になって不安や疲れを感じることもあります。

それでも、ある程度の期間これを続けると、「どんな仕事を」「どれくらい」「どういう環境で」続けると、自分のメンタルの波はどう動くのか、傾向が見えてきます。

少しずつ、仕事量を変えて試し、その影響を調べてみるのが大切です。

*ただし、数値が気になりすぎる人、面倒くさくなってしまう人は、自分の性格に合わせて、書き込む内容も簡易化することをお勧めします!

 

発達障害を持っていると、「目に見えないもの」に対して敏感になりすぎたり鈍感になりすぎたり、とにかく冷静な判断が下せないことが多い。

だから、どんなことも、まずはわかりやすく、直接脳に訴えかける「刺激」にする必要があります。

特に聴覚と視覚の影響は大きい。

だから、目に見える形で「自分」を知ることを重視すべきだと、私は思います。

「情けない」自分を直視するのは辛いですが、自分を知り、認めないことには、ただただ自分を痛めつけ、傷つけることを繰り返すことになります。

むしろ定型の人の多くは「自分の限界」をなんとなく把握し、だいたいそれを超えない程度に頑張ることを自然としています。だから、ギリギリまで自分を削る状態はむしろ異常なのです。

 

収入面などの理由で、必ずしも自分に最適な仕事量を選ぶことができない人もいます。それは仕方がないことなのかもしれない。

ただ、無理し続ければ、うつ病に繋がってしまう危険があり、結果薬代や病院代が嵩むことも十分にある。

それを忘れてはいけないと思うのです。

 

 

 

性とはいつ決まるのか

先日ツイッターでふと呟いたことが自分の中でまた気になりだしたので、つらつらと。

 

性(gender)っていつ決まるものでしょうか?

最近欧米ではLGBTにQ、つまりQuestion という新たな分類が加わったそうです。

つまり、「自分の性がわからない人」。

私ももしかしたらQなのかもしれないな、と思います。

身体は女として生まれ、二次性徴を迎えて特に自分の性について疑問を持つこともなく「身体が女だから、女なのかな?」程度の認識で生きてきました。

特に困ることもありません。

でも、私は本当に女なのでしょうか。

 

よく性的マイノリティの人が、「昔から自分の性に違和感があった」「だんだんと二次性徴で変わっていく自分の体が気持ち悪かった」「最初に恋愛感情が芽生えたのが同性だった」と取材などに答えています。

ふむふむ、なるほどそういうものか。

 

…と、納得して終わることを頭が許してくれません。

「あれ、私自分が女だって自覚したことあるか?」

 

私は恋愛感情がよくわかりません。いや、知っているはずではあります。4年間好きだった男性もいて、告白もしました。

でもそれは、「異性というカテゴリで最も好感を持てた相手」という存在でした。

同性の親友に対して抱いている親愛と何が違うのか、よくわからない。

性愛が湧くかどうかを判断基準にする人もいますが、プラトニックな愛も恋愛感情と言えるはずです。

それに、女子校育ちの影響なのかわかりませんが、同性に身体を触られることに全く抵抗もありません。

(最近はノーマルの人もレズ風俗を使うようになってきているとも聞きますし、意外と当てはまる女性も多いかもしれません。)

嫉妬という感情も、親友が自分以外の人間とばかり仲良くして、自分から離れていったら、性別に関わらず湧きます。

…恋愛ってなんなんでしょうか。

 

まあ、ここまでなら「バイなんじゃね?」で話は終わるのですが、

というか一時期は自分がバイなのかもしれないと思っていました。

 

私が大学時代に所属していたサークルは、男女仲が結構よく、友達として何人かで、子どものように普通に遊ぶことも多くありました。(ある種のリア充サークルだったのかも…?そんなウェイウェイはしてなかったけど…)

私はもともと大勢で遊ぶよりも少人数で過ごすことが好きなので、女友達とも二人で遊ぶことが好きです。

だから本当は性別なんか関係なく、一緒にいて楽しい人に声をかけ、友達として遊びたかった。

でも、遊びに誘いたい相手の性別が男の場合、色々とややこしい問題が発生します。他意がなくても、相手に勘ぐられる可能性もありますし、周囲からも誤解される危険が出てきてしまう。

だから、他にも数人に声をかけ、誤解されないよう色々と気を使わなければなりません。

ああ、なんて面倒臭い。

 

…自分の性が男だったら、彼らと遊びたいときにこんな面倒なことを考えなくて良かったのだろうか。

ふと、そんな考えがよぎってから、「ああ、それもアリだな」と抵抗なく受け入れられました。

SFみたいな話ですけど、例えば、ある日突然謎の組織によって、私の身体だけが男になったとして、

 

…あ、別にそれもアリだわ

と思う、そんな感じです。

 

となると、そもそも私のジェンダーはなんなのか?わからなくなり、行き着いた答えが前述のQuestionというわけで。

というか、生まれてから一度も他人と関わったことがない人間が、自分を「男だ」「女だ」と身体の性(sex)以外で認識することはあるのだろうか。性的マイノリティの人が、自分の特徴を自覚するのは一体いつ、何が原因なのか、そんなことも気になるわけで。

(彼らの感情を否定しているのではなく、とにかく仕組みが知りたいのです。)

 

自分は女で、恋愛対象は男。と決めてしまうのは簡単ですが、そうじゃない可能性を考えてみるのは悪いことでしょうか?

 

これまでこういう話をすると、「色々とぐちゃぐちゃ面倒臭く考えすぎ」と言われることも何度もありました。ですが、現代の性的マイノリティに関する問題やテーマの根本と何か関わりがあるような気がしてなりません。

私が発達障害の「グレーゾーン」だからこそ、「どちらとも言えない」立場というものに強く関心が惹かれるのかもしれません。

 

かつて言語学を学んでいた人間として、言葉による定義(「発達障害」や「LGBTQ」など)に救われたところと、そういった定義つけによってラベリングされ、生きづらくなったところと、両方を感じます。

言葉というものは、考え事をする際に思考を深めるツールとして重要ですが、言葉の持つ上部の意味だけにとらわれると、思考停止にもつながってしまう、そんな危険もはらんでいます。

身体の性(sex)は決定されていたとしても、心の性(gender)は男と女だけではない。もっと別のものがあるのかもしれない。言葉にとらわれず、自分の心、他人の心に向き合いたい。そんな感情が何とは無しにせり上がってくるのでした。