希死念慮と死への恐怖
今日は短め。
私の中には昔からずっと、希死念慮と死への恐怖という、一見すると相反する感情が常に共存していた。
そんな自分をずっと「どっちもあるなんておかしい。私はそういう感情を言い訳にして現実から目を背けているだけだ」と責めてきた。
漠然とした『消えてしまいたい』という思いがある。それはきっと、生きていることに将来的な希望を見出せないからだ。時折楽しいこともある。でも、辛いことの方が多い。今の自分の現状で、今後良くなっていくようにも思えない。だから、将来的にあるかもわからない幸せを期待して苦しい思いをし続けるくらいなら、全て捨てて楽になりたいという思い。
一方の死への恐怖は、生物の本能のようなものだけど。まあ、『未来の可能性』について想像する力を持つ人間だからこその恐怖なのかもしれない。自分の存在がこの世界から消失するとは何なのか。全く未知のブラックホールへ投げ出されるような恐怖。普段の思考レベルでの『命あるものは死ぬ』という考えより一段階深い次元で、『消えるとは何か』を考えてしまう。暗い部屋で静かに死について考えていると、発狂しそうになることが定期的に起きる。他の人が無意識に考えないように蓋をしている命の根本という所に、なぜか無防備に立ち会ってしまうような感覚。
けれど、最近この死への恐怖は、老いへの恐怖なのかもしれない。と思うようになった。死ぬことそのものより、死ぬ瞬間。自分の人生を振り返った時、楽しかったことよりも苦しかったことの方が多く浮かんできたらどうしよう。誰も看取ってくれない部屋で静かに死ぬのは嫌だな。アルツハイマーになってて、周りに迷惑かけて、愛していたはずの家族からも疎ましがられる存在になって死んでいき、死んだ時に「せいせいした」と言われるんじゃないか。(これは私の祖父がなくなるまでの出来事が影響してると思われる)
とにかく色んな、どうしようもない未来のことについて不安になるのは、今私が就活をしたり、資格の勉強したり、大学もう一回入るかもって検討したりと、今後の人生の歩み方について決定する大きな岐路に立っているからだと思う。
時には死が救いになるともある。私はそれを否定できない。だからこそ、自分が迎える死に方が気になるのだ。
それでも、最近少しずつ、違う気持ちも生まれつつある。中学生の時、いとこが飼っていたラブラドールが、私の目の前で死んだ。少しずつ痩せていって、私毎日通って、伯父さんと伯母さんは用事があるからって側についていてあげなくて、私がたった一人で診ている時に、突然ブルブルと全身が揺れて、四肢が一度ピンと張り、その後グタっと力が抜けた。自分の目の前で命が失われていく瞬間を生々しく見ていたのは初めてだった。
感じたことは二つ
一つは死ぬということ
二つは死ぬ時のこと
死ぬということについては、もうそういうものだから、としか言えないから諦める。
けれど死ぬ時、私だったら家族とか親しい人に最後まで見ていてほしい。手を繋いでいてほしい。いとこの家は犬は好きだが、我が家のように家族の一人としてみているわけではない。どちらかいうと番犬のような。だからあまり犬をベタ可愛がることが多くなかった。とはいえ、十何年も家族をやってきたのだから、その犬とて瞼を閉じる瞬間に飼主の顔を見たかったはず。それをいつも通りの予定があるから放置という、神経が理解できなかったし。犬の気持ちになったら、ひたすら悔しかった。最後は私が見た。小さい頃からずっと遊んできた妹のような存在として愛していたから、とんでもなく泣いた。でもやっぱり犬ならば最期は飼主との横で生を終えたかったはずだ。
そして、この件があってから、死ぬ瞬間というものに興味を持つものになった。
自分を支えてくれた人たち、愛してる人たちに見守られて死にたい。孤独死は嫌だなあ。などと。けれど、自分を看取ってくれる人が今後でてくるのか。それを考えたら今度は『今のうちに死んでしまいたい』という思考になる。
祖父は深夜に祖母からの電話で他界を知った。朝向かった時はきれいに整えられていて、あまり死という印象はしなかったけど、触れた肌が冷たかったこと。遺体を焼いて、小さくかけて焼けた骨を一つ一つ納骨しまこと。あとは、ずっと赤ん坊のようになっていた祖父がようやく穏やかになってよかった、と一族が安心感に包まれていたこと。それが印象に残っている。悪い親戚ではないが、介護が大変だったことはその通りとはいえ、その苦行から解き放たれたことを喜んでいるかように振舞っていてなんとなく物悲しくなり、私はこういう最期を迎えたくないと思った。
こんな風に二つの感情に振り回されていきてきた私だが、最近この二つは結びついていることが理解できるようになった。
まず
1いろいろあって生きてて楽しくない
周りにも迷惑かけたくないから楽になりたい・消えてしまいたい
いつはいいことあるとかそんな不確定なことを信じられるメンタルじゃない
2死んでしまいたいなあ
でも自殺は周りに迷惑かけるから、生きる屍みたいに生きていくしかないのかな
3でも、そんな生きてんだか死んだんだかわからない状態で生きてるってことは、今後の私はこのまま?じゃあ何十年後かの私は?
4何も成し遂げられず、誰にも必要とされることもなく、生き物として淡々と命を終わらせて死んでいく。そんな自分の未来が想像できる
5そんな死に方したくない
6そしたら今から友人関係家族構築色々準備せねば…
7頑張るはいいけど、なんか軒並みうまくいかない…
8 1に戻る。消えたい
雑だけどまあこんな感じだな。結果怖かったのは希死念慮と死に方への恐怖なんだよね
でも、犬・祖父・それからTBSのクレージージャーニーで大量の死後新しい死体を見まくったこと、小学生の頃から沖縄戦の写真集などで野山に転がる日本兵の写真も散々見まくったことから、少しずつ『死』への漠然とした恐怖が薄らいでいってる気がする。
私もああいう死体の一つになるだけのことだって考えることを少しずつ淡々とできるようになってきている。
そして、いつかああなるのなら、とりあえず今はまあいいかな、ってことで死を遠ざけるコツもうまくいくようになった。
苦手なものには、あえてあえて触れ続け、考え続けると、苦手じゃなくなることもあるんだなって実感した。
だから今は死への恐怖の方が抑え気味
希死念慮はもう…しばらくはどうにもならんから
でもまあ、どちらの感情も共存して良いものなのだと理解できてよかった。
結局長くなった
眠剤飲んでたから文章所々おかしいかも